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Story. 006 「待つ」ということ
太宰治に『待つ』という掌編のあるのをご存じですか。それはこんな不思議な書き出しで始まります。
「省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。市場で買い物をして、その帰りには、かならず駅に立ち寄って駅の冷いベンチに腰をおろし、買い物籠を膝に乗せ、ぼんやり改札口を見ているのです。」といったふうに始まります。
この主人公の目に見えないモノへと傾いていく微細な感覚や畏怖する心にわたしは強く心惹かれます。例えばこんなふうです。
「いったい私は、毎日ここに坐って、誰を待っているのでしょう。どんな人を? いいえ、私の待っているものは、人間でないかも知れない。私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合せて、お変りありませんか、寒くなりました、などと言いたくもない挨拶を、いい加減に言っていると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にいないような苦しい気持になって、死にたくなります。」
「ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。私の待っているのは、あなたでない。それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。」
そうしてこの小説はこんなふう幕を引きます。
「私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十(はたち)の娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。」
この掌編には今話題になっている宮崎アニメ『崖の上のポニョ』では描けなかった(描かなかった)「その手前で待つ」という大切な感覚や「壊れそうな心」が潜んでるとわたしは思うのです。しかし、そこには間違いなく宮崎アニメに共通する「見えないモノへの畏怖」が流れています。
そういった意味で恐怖を感じつつも、そんな「私」を愛らしくも思えてしまうのです。ギュッ。

図書館や博物館の立ち上げ、ブックアートギャラリーの企画・運営、出版、企業のキャンペーンやキャラクターデザイン、ブランディングなどの企画に参画。講座・講演、各種審査員多数。テレビやラジオのコメンテーター、本の紹介番組などにレギュラー出演。日本新聞協会賞、ACC賞など広告賞多数。国立大学法人静岡大学人文学部非常勤講師。


















